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さいとう・たかをと父 松本正彦1

私の履歴書
Dec 02,2021

僕の父親は漫画家だった。

売れない漫画家だった。

いや正確に言えば、僕が生まれる前までは売れていた。

文献を調べ、当時を知る人に聞くと、大阪の日の丸文庫の三羽烏と言われた人気作家だったらしい。

大手出版社が漫画の出版を手掛ける前夜のことだ。

左からさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、松本正彦。1958年5月
父は大阪で生まれて神戸で育った。
手塚治虫に憧れ、当時彼が住んでいた兵庫県川辺郡にあった自宅の場所を調べて押し掛け、アトリエでサインをもらったことをきっかけに、高校を出てから漫画家を志す。
学校の校長を務める祖父に目の前で漫画を破り捨てられた経験を持ちながらも、押さえられない熱い想いに父は動かされた。
大阪船場にある漫画出版社のドアを叩き、幸か不幸か、その出版社の社長に認められ18歳でデビューする。
その出版社が、のちに水島新司、山上たつひこ、池上遼一らを輩出する貸本の日の丸文庫だった。
やがて父の作品は評判となり、新聞の人気作家ランキングにもその名前が掲載される存在となる。
大手出版社の資本によって、巷にあふれるようになるコミック週刊誌は、世の中にまだ存在していなかった時代だ。
劇画が生まれる舞台裏を描いた父の自伝的作品「劇画バカたち!!」。1979年
日の丸文庫で人気のあった3人は三羽烏と呼ばれたが、それがさいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、そして父だった。
父は3人をモデルにした作品「劇画バカたち」を後年になって描いている。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8A%87%E7%94%BB%E3%83%90%E3%82%AB%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%AD%A3%E5%BD%A6/dp/4883792846/ref=sr_1_1?adgrpid=116660186558&hvadid=536222885936&hvdev=c&hvqmt=e&hvtargid=kwd-332721017470&hydadcr=16036_13473659&jp-ad-ap=0&keywords=%E5%8A%87%E7%94%BB%E3%83%90%E3%82%AB%E3%81%9F%E3%81%A1&qid=1638428235&sr=8-1

この3人は、1956年8月から大阪の天王寺細工谷町のアパートの1室で共同生活を送りながら、毎日のように漫画の未来について語り合った。
当時、もっとも支持されていた手塚治虫のマンガにはない、まったく新しい表現を模索していた。
子供向けに描かれた手塚漫画に飽き足らず、大人向けのストーリーで、もっとリアルな表現はできないものか? 日々試行錯誤に明け暮れていた。
3人の共同生活は1ヵ月で終わったが、その直後に生み出された表現が「駒画」だった。
それまでの既成概念としての漫画ではもうない、漫画ではない漫画。
だからこそ新しい呼称にする必要があった。
平面的でない奥行きのある構図、映画のようなカメラワーク、セリフがなくてもコマを重ねることで生み出さる物語の臨場感、
これらは、今のマンガでは極めて当たり前の表現だが、当時は誰もやっていない革新的な試みだった。
そして手塚をはじめとするそれまでのマンガと異なるのが、笑いのないストーリーだった。
笑いのない漫画、それはもう漫画とは呼べないと。
コマを重ね、ストーリーにリアリティを持たせるために工夫された技法。
これを最初に作ったのが父だった。
「駒画」という呼称は、物語の命はコマにあるという考えからつけられたものだ。
父はこの呼称をマークとして図案化して、以後自分の作品の扉に毎回配置して、誰にも口外することなく、たった一人で静かに新しい表現の是非を世の中に問うた。
1956年9月のことだった。
松本正彦が「駒画」の名前を初めて使った「吸血獣」。1956年9月
それからしばらくして、盟友の辰巳ヨシヒロは、父の作品についている「駒画」のマークに気づき、勝手に漫画の呼称を変えたことに、またその表現手法に驚く。
辰巳は「駒画」の技法を習得し、1年半後、それに対抗する名前として「劇画」という呼称を考案し、「駒画」と同じようにマークをつけて作品を発表する。
辰巳は父たちとの共同生活から、ともに同じ革新的な漫画を模索し、「駒画」に少し遅れて、それと同じコンセプトで描き始めていた。
特に父とは出版社の帰りなどでも、喫茶店で何時間も漫画の表現について語り合った。
父は生前これについて、彼はたちまちのうちに影響を受け、自分のやり方を会得してしまったと言っていた。
当時の「劇画」のコンセプトは「駒画」から取ったもので、その表現にも何ら差はない。
ただ唯一異なるのは、辰巳ヨシヒロは、父以外の同じような傾向を持った関西在住のマンガ家たちを自宅に一堂に集め、同じ呼称「劇画」を共同で使うと決めたことだ。
この時点で、父の発案した表現としての「駒画」は、関西の作家たちが東京へ進出するための旗印としての呼称「劇画」になった。
そして、それはさいとう・たかをを含む7人の作家からなる「劇画工房」という集団に発展した。
辰巳ヨシヒロは当時を振り返り、「駒画」がなければ「劇画」も生まれなかったと回想している。
辰巳ヨシヒロが初めて「劇画」の名称を使用した「幽霊タクシー」。1958年
辰巳ヨシヒロの自筆による「駒画」と「劇画」について
同じ志を持ったメンバーたちは「劇画」という力強い旗印を得て、さいとう、辰巳、松本の後を追い、全員が揃って上京する(山森のみ京都に残る)。
日の丸文庫の山田社長は、この集団を出版社からの依頼までもコントロールする判断機能を持った自立した組織、組合と見なし、設立に猛反対する。
上京した父の元へも毎週のように、「ゲキガハイルナ」という手紙を送りつけていた。
しかしながら、父も後に自分一人で作った「駒画」を捨て、劇画工房に参加することになる。
さいとう・たかをも劇画工房に加入後は、以後の作品をこの名前で発表
日の丸文庫の人気作家の3人(さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、松本正彦)は、名古屋にある出版社から上京に必要な資金を全額出すというオファーを受け、3人揃って上京し、大阪時代と同じように今度は東京の国分寺で共同生活を始める。
東京での生活は、3人だけだった大阪時代とは違って、劇画工房に加入した新しいメンバーも加わった。
そして同じアパート内で、各自が別々に部屋を借りたことも大阪時代とは違っていた。
それは藤子不二雄など東京のマンガ家たちが暮らしたトキワ荘の生活と似ているが、異なるのは、自分たちの手で制作から編集までを独自に行う「劇画工房」というチームによる共同生活であったということだ。
松本正彦は劇画工房結成後も一人「駒画工房」として活動した。1958年
「駒画」を発案した父、そして「劇画」の呼び名でメンバーを集めた辰巳ヨシヒロ、2人は、作画よりもどちらかと言えば構成やストーリー展開に重きを置いていた。
映画で言えば、漫画に登場するキャラクターは役者、しかし重要なのはストーリー、漫画で言えば構成力だと父は発言している。
しかしながら、東京の出版社からは大阪の泥臭いタッチの絵は受け入れられず、手先が器用で洒脱なタッチを得意とするさいとう・たかをが、その中で徐々に頭角を現し始める。
特にさいとうが描くアクションものは、当時の人気作品となった。
これが後に、アクション漫画=劇画という間違った概念を読者に植え付けることになるのだが。
さいとう・たかをは当初作品に、自分のイニシャルから採った「TS工房」という名前をつけていたが、「劇画工房」に加入して以降は、自分の作品を「劇画」と呼び、その旗印を日本中に広めることになる。
60年代初頭には、日本で初めてプロダクション制を導入し、ストーリーと絵を分離して複数の作家で分業する、今のマンガの制作方法を初めて実践した。
そして大手出版社から「ゴルゴ13」を発表し、日本を代表する劇画作家となっていく。
さいとう・たかを=劇画という認識を日本中に広く植え付けた。
辰巳ヨシヒロが模倣した「駒画」のコンセプト。MとG
劇画工房のメンバー、いやそれだけではなく日の丸文庫の多くの作家たち、また同じ作風を持つそれ以外の数多くの作家たちは、大手出版社から出版されるマンガの波には乗れず、そのほとんどが消えていった。
日の丸文庫の三羽烏と呼ばれたさいとう・たかを以外の2名、辰巳ヨシヒロ、父もそれは同じだった。
続く

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松本知彦 Tomohiko Matsumoto

東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。

  • 趣味:考えること
  • 特技:ドラム(最近叩いていない)
  • 好きなもの:ドリトス、ドリフターズ、
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