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父の作品がいま世界を巡っている1

私の履歴書
Jan 12,2024

年が明けました。今年2024年もよろしくお願いします!

さて昨年も色々なことがありましたが、ようやく緩やかに社会が回復していることを感じます。

思い返せば、コロナが蔓延したおよそ2年間は、働くスタッフ間でも精神的なつながりが希薄になり、みんなの心にも余裕がなくなったせいなのか、自分自身も組織運営の面で大変でした。

数字的な大変さというより、みんなの気持ちがバラバラになりかけていた中でも、前を向いて働いていこうと引っ張ることの大変さ。
もう過ぎたことだから言えることですけどね。汗
でも去年の後半くらいから、少しづつそれが薄れて、よい兆しが見えてきている気がします。

イタリアのCOCONINO PRESSから出版された「I FANATICI del GEKIGA」
そんなこともあって、年明け1発目は、個人的に嬉しかったニュースを紹介しますね。
父親の作品が海外で出版されたっていう話です。
この談話室でも何度か触れていますが、自分の父親は漫画家でした。
名前を聞いても、ほとんどの人が知らない漫画家です。
漫画の黎明期に活躍した3人の若き作家を題材とした自伝的ストーリー
それでも、宮崎駿さんがジブリの朝礼で、父のファンだったことをスタッフみんなに長い時間話してくれたり、野球漫画の水島新司さんも、水木しげるさん、楳図かずおさん、つげ義春さんもそうですが、同じ時代に活動した多くの作家仲間の方たちからは評価された存在でした。
僕がそのことを知ったのは、父が亡くなってしばらく経ってからのことです。
父の作品集「隣室の男」を小学館から出版する話が持ち上がった際に、父と接点のあったそれらの方たちに自分が直接連絡を取って貴重なコメントをいただき、皆さんが父をリスペクトしてくれているという事実を知ることができて嬉しかった。
自分の手で父の本を編集出版できたのは貴重な想い出となっています。
自分で編集して小学館から出版した「松本正彦 駒画作品集 隣室の男」
https://www.amazon.co.jp/%E9%9A%A3%E5%AE%A4%E3%81%AE%E7%94%B7-%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E6%AD%A3%E5%BD%A6/dp/4778031172

父親のことを自分で紹介するのは今までとても苦手でしたが、少し慣れてきましたので父のことをちょっとだけ紹介します。
大阪で生まれた父は、中学生の時に手塚治虫の漫画を読んで大ファンになり、出版社から手塚さんの自宅の住所を聞き出し、当時兵庫県宝塚にあった手塚さんのアトリエへ、たった一人で押し掛けます。
その時に、自分の目の前で漫画について、堂々と本気で熱く語る手塚さん本人に触れて感銘を受け、のちに自分も漫画家を目指すようになるのでした。
こちらはフランス語版。日本と比べて立派な書籍の仕様には文化の違いを感じます。
その後、父は大阪の出版社で、新しい漫画の表現を模索する若き作家たちに出会います。
その中の2名、「ゴルゴ13」で知られるさいとう・たかをさん、辰巳ヨシヒロさんとは、食堂の2階にあったアパートの1室で3人一緒に住み込みをしながら、手塚治虫の漫画に代わる新しい漫画表現を追求し、やがて「劇画」という、それまでの漫画にない新しい表現ジャンルを生み出しました。
1つのベッドに3人で寝ていた大阪での共同生活。父は常にセンターでした笑
当時父は22歳。
「劇画」より早く、「駒画」という独自の表現に踏み込み、それが1年後の「劇画」の誕生につながります。
「劇画」のオリジナルは「駒画」であり、呼称が異なるだけで2つの表現にほぼ違いはありません。
3人を含む8名の仲間は「劇画」の誕生から間もなく「劇画工房」を設立し、全員が「劇画」の名称を使って作品を発表するようになります。
大阪での3人の共同生活は数ヵ月で終わりますが、その後3人は揃って上京し、今度は東京国分寺のアパートで、再び一緒に暮らしながら、さらなる活動を続けました。
大阪で生まれた「劇画」が東京でも徐々に受け入れられるようになると、大阪から3人以外の「劇画工房」のメンバーを国分寺へ呼び寄せ、その後1960年代に起こる、大手出版社の少年漫画週刊誌の発刊ブームに乗って、「劇画」は社会で認知されるようになり、その中でさいとうさんの作品に注目が集まります。
さいとうさんの描く「ゴルゴ13」的なハードボイルドな作風が「劇画」だという認識は間違っているのですが、それは置いておいて、大阪の3人の作家から生まれた「劇画」の表現は、世界が認める日本のMANGAの源流になっていることは間違いありません。
こちらはリアルな3人。左からさいとう、辰巳、松本。
その流れの原点に父がいました。
劇画が生まれる前、新しい漫画表現の発火点となったのは父の作った「駒画」だったということです。
辰巳さん、さいとうさん、劇画工房の8人、そこから後に続く多くの漫画家によって、表現は踏襲され、工夫され、また時代に応じてアレンジされ、今に至っています。
たくさんの漫画家たちの知恵がそこに結集され、現状を乗り越えようという多くの志があったことは間違いがありません。
表現は磨き上げられ、その上に現在の完成された漫画表現があるということです。
学校から、教育者たちから、憎まれ、疎まれ、悪書として反対されてきた漫画は、日本が誇る文化と呼ばれるまでになる変遷がそこにあります。
年鑑「この漫画を読め」にランクインした「劇画バカたち!」日本語版
https://www.amazon.co.jp/%E5%8A%87%E7%94%BB%E3%83%90%E3%82%AB%E3%81%9F%E3%81%A1-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%AD%A3%E5%BD%A6/dp/4883792846

父は、自身の20代のこうした活動について振り返り、70年代に自叙伝的な作品を小学館のビッグコミックに連載していました。
それが「劇画バカたち」という作品です。
内容は、上記で説明したような漫画黎明期に活躍した3人の作家たちにスポットを当てたもの。
大阪にある出版社で出会った若き作家(さいとう、辰巳、松本)の3名が、アパートの同じ部屋で生活しながら、それまでにない新しい漫画表現を生み出すために苦悩するストーリー。
大阪での共同生活、そこから上京して3人が再び一緒に東京で活動した期間、大手出版社が介入して漫画が社会で大量消費されるようになるギリギリ手前までが描かれています。
この作品を描いたあと父は、1980年代に「ゴルゴ13」の原作シナリオを複数手掛けたのち、晩年は切り絵作家に転向しました。
僕が生まれるずっと前の出来事ですが、彼にとっては輝いていた青春の時代だと思います。
左上から時計回りにフランス語、スペイン語、日本語、そしてイタリア語版。
この作品が去年の秋、イタリアの出版社からイタリア語に翻訳されて発刊されました。
オファーをいただいた時は嬉しかったですが、同時にイタリア人はこのストーリーに共感してくれるのだろうか?という、いつもの不安が。。。
いつもの不安と書きましたが、この作品は日本語版以外にも、フランス語、スペイン語に翻訳されてヨーロッパの国々で出版されています。
その度に毎回同じことを感じるのです。
家庭での父の姿しか知らなかった自分が、宮崎駿さんや水木しげるさんの言葉によって驚かされたことと同じかもしれません。
イタリアでの出版は、その後イタリアで新聞にも大きく取り上げられたり、雑誌にも掲載されました。
イタリア語版の書籍には自分のインタビューも収録されています(イタリア語なので内容読めませんが、次回この談話室でも紹介します!)
出版に当たっては、漫画家の上村一夫さんの娘である汀さん(漫画家2世会で知り合いました。2世会の会長はちばてつやの息子さん)、そしてイタリアの編集者パオロさんにはとてもお世話になりました。ありがとうございます。
イタリアの新聞「La Stampa」にも大きく取り上げられました。
世界中にいる一人でも多くの人に、父の作品に触れてもらえる機会ができることは、この上ない喜びです。
また同じタイミングで、この「劇画バカたち‼」の原画が、いま世界中を巡っています。
ロンドンにあるヨーロッパ最大の文化施設バービカン・センター主催のMANGASIAという展覧会に、イギリスからの要請で父の原画と70年前の書籍を貸し出しているんです。
日本には来ていないものの、この展覧会は世界中の都市を巡っているので、そちらでも1人でも多くの人が父の作品に触れてもらえれば嬉しい限りです。

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松本知彦 Tomohiko Matsumoto

東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。

  • 趣味:考えること
  • 特技:ドラム(最近叩いていない)
  • 好きなもの:ドリトス、ドリフターズ、
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