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父の作品がいま世界を巡っている2

私の履歴書
Jan 18,2024

父が70年代に発表した作品「劇画バカたち!」が昨年、イタリアで翻訳されて発刊されました。

出版にあたり、イタリアの編集者パオロさんから取材を受けて、その内容がイタリア語で収録されていますが、せっかくなので日本語の原文をここに掲載したいと思います。

ちょっと長いですが、ここでしか読めませんので、もしよろしければ読んでみてください。

https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2024/01/post-156.html

劇画を巡る3人の作家のストーリー。イタリア語版。
Q1:一番最初に伺いたいのは父としての松本正彦先生の思い出についてです。お父様との思い出はどのようなものですか。

子供の頃から父に怒られた記憶は1度もありません。いつも温和で優しい父親でした。
小さい頃から僕に芸術の素晴らしさを教えてくれて、たくさんの愛情を注いでくれた存在です。
小さい頃は、父に習った絵が複数回コンクールで入賞し、学校で全校生徒の前で表彰されるたびに嬉しかった思い出があります。
しかし、大人になるにつれ、ずっと働いている母を見て、芸術を仕事として選んではいけないと思うようになっていきました。
芸術の素晴らしさ、その道を自分に示してくれたのが父でした。
Q2:学生時代、お父様のマンガを読んだ事がありますか。どんな印象を受けましたか。

あります。小学校の時に貸本時代の単行本、その頃に出版された「パンダラブー」も読みました。
貸本時代の単行本は面白いなぁと思って、時々物置から引っ張り出して読んでいましたが、60年代に入り、作風が劇画に変わったあとの作品は、子供心にあんまり面白くないと感じていました。

https://www.amazon.co.jp/-/en/%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%AD%A3%E5%BD%A6/dp/4883791106
70年代に出版されて近年復刻されたカルト作品「パンダラブー」。
Q3:家の中で、松本正彦先生の仕事についての会話がありましたか。

仕事のことを僕には一切話しませんでしたし、子供の頃家で漫画を読むことは禁止されていました。
漫画から僕を遠ざけようとしていたのかもしれません。
仕事について話したのは1度だけ。「たばこ屋の娘」の出版依頼が来た時に、既に病気で寝たきりになっていた父は、僕にその出版作業を依頼した。
それが親子で仕事について語った最初で最後の会話です。

https://www.amazon.co.jp/%E3%81%9F%E3%81%B0%E3%81%93%E5%B1%8B%E3%81%AE%E5%A8%98-%E6%9D%BE%E6%9C%AC-%E6%AD%A3%E5%BD%A6/dp/4883793001
「たばこ屋の娘」は世界5ヵ国語で読める。これはフランス語版。
Q4:お父様はどのような家庭に生まれたのでしょうか?どのような教育を受け、どのような環境で育ったのでしょうか?

父の父親(私の祖父)は、道路に家の名前が付けられるほど地元の名士であり、資産家の裕福な家に生まれ、4兄弟全員が教師という家庭環境で育ちました。
祖父も高校の校長先生を務めており、父は小学校で学級委員を務めるなど学力優秀だったようです。
ただ父がまだ8歳の時に祖父は亡くなり、祖父の恩給と祖母の和裁だけで、家族5人が生活しなければならない状況に追い込まれ、経済的に大変な家庭となりました。
Q5:絵を描くこと、マンガを描くことへの情熱は、いつ頃から始まったのでしょうか?

父が中学生の時の美術の先生が、とてもユニークで熱心な人だったようです。
父を誘って、毎日のように校外にスケッチに出かけたそうです、
時には、先生と2人で授業をサボって、絵を描きに行くほど絵に没頭したと聞きました。
その頃描いた絵で、神戸市から表彰も受けています。
中学3年生の時に所属した図画部に、絵が上手い同級生がおり、彼の影響を受けて漫画を読むようになり、手塚治虫を知ります。
それが漫画へと傾倒していくきっかけとなりました。
Q6:お父様の漫画家としての冒険は、いつ、どのように始まったのでしょうか?

手塚治虫の作品に触れてから、漫画への情熱を抑えきれなくなった父は、手塚治虫の版元であった「東光堂」から住所を聞き出し、当時兵庫県河辺郡に住んでいた手塚治虫の自宅を一人で尋ねます。
手塚さんはこの突然の16歳の訪問を快く受け入れ、自宅の2階にあったアトリエに通してくれて、話をしながら父の目の前でお茶の水博士のキャラクターを描いた。
家で漫画を読んでいるのが見つかると祖父に厳しく叱られ、目の前で漫画を破り捨てられた経験を持つ父は、漫画について本気で熱く語る大人の姿を見て感銘を受け、漫画の未来を確信するのです。
この体験がその後父をさらに漫画に向かわせたと思います。
逆に言えば、この体験がなければ父は漫画家を目指さなかったかもしれない。
16歳で手塚治虫のアトリエに押しかけ、目の前で本人に描いてもらったサイン。
Q7:デビューは1953年、『坊ちゃん先生』で、この頃、日の丸文庫とのコラボレーションが始まりますが、この時期について教えていただけませんか。お父様から、漫画家としての幼少期について何かお話はありましたか?

早くに祖父を亡くし、自分一人で一家を支えなければならなかった父は、夜学に通いながら昼間は働かなければなりませんでした。
1度は企業で働き始めたものの、漫画への情熱を捨て切れなかった父は、自分一人で作品を描き上げ、当時大阪にあった東洋出版社(のちの日の丸文庫)にその作品を持ち込みます。
最初に描いた作品は手塚の影響を受けたSFモノでしたが、SFモノは売れないという理由でボツになり、代わりにユーモアモノを依頼されます。
これが1953年のデビュー作、単行本「坊っちゃん先生」です。
デビューの翌年、1954年の作品。表紙も作家自身の手によるもの
Q8:お父様は、ユーモア漫画の連載から始まり、柔道やミステリーにまつわる物語を発表されていますが、当時、これらの作品はどのように受け止められたのでしょうか。

「坊っちゃん先生」のデビュー作から、4作目までの単行本はユーモア漫画ですが、5作目で柔道、6作目はボクシング、7作目は再び柔道。
このあたりのテーマは日の丸文庫の社長からの依頼だったようです。
8作目以降は、ミステリーでリアリティを追求するようになります。
デビュー後、父は漫画1本で一家を養う生活をはじめますが、当時の社会で漫画は、子供の教育に良くないという理由から、教育者や一部の大人からは目の敵にされていました。
校長先生だった祖父が、父の読んでいた漫画を破り捨てたというエピソードからも、それは明らかです。
しかし子供たちは漫画に熱中し、父は5作目の単行本で毎日新聞の人気作家ランキングで3位に入るほどの人気作家(関西地区からのランクインは父一人だけ)となりました。
これにより日の丸文庫からも表彰を受けています。
「劇画」より1年半早く、「駒画」として発表した1956年のスリラー作品「吸血獣」
Q9:最近、松本先生が1956年に書き、描いた『隣室の男』という漫画を読み直したのですが、とても新鮮で、当時としては実に興味深い、確かに珍しい考察がいくつもありました。主人公は、父親(締め切りや出版社からの要求に悩む若い漫画家)の分身とも言える存在で、隣人にまつわる謎を中心に、漫画の中の漫画(メタ漫画)を描いています。さらに、物語の重要な場面を強調するかのように、「スピード」や「ダイナミズム」といった概念に焦点を当て、明らかに映画の影響を感じさせるコマもあります。 お父様がこのようなコマを描かれるようになったのは、どのような影響からだとお考えですか?

これが劇画の原点となりました。
漫画に対する劇画という単純な構図ではなく、劇画が生まれる1年以上前に劇画の原型である駒画があったのです。
父は生前、以下のように言っています。
「やっぱり自分の作品で一番大事なのはコマだと思っていた。ストーリーを面白く見せるのは構成であり、構成というのは(漫画で言えば)コマの差し替えやコマの数だと思っていた。単行本の場合はページ数があるからそれを自分で自由にコントロールできる。」
「コマを長くしたり、小さくしたりすることで時間を表せたし、感情を盛り上げられた。」
「子供漫画の場合、感情は必要なかった。悲しいところではエーンと泣かせればよいし、面白いときはワハハと笑わせればよかった。ただそれは文字と絵で表現するだけだけど、俺はそうするわけにはいかない。悲しませるように持っていくためには、やっぱりコマを重ねなければならない。そうすると葬式のシーンでは、隣にチンドン屋がいれば、対比で余計に悲しくなるんだろうと。そういう演出方法は映画を参考にして考えていた。」
辰巳ヨシヒロをはじめ同じ作家、多くの人に衝撃を与えた「隣室の男」
雰囲気や主人公の感情、読者を引きずり込む、主人公になったつもりにさせなきゃならない。それを非常に意識していたけど、辰巳さんはそれを新しいと思ったみたいで、たちまちのうちに影響を受けて、俺のやり方を会得してしまった。」
「辰巳さんをはじめ、なぜ当時みんなが衝撃を受けたのか? それはストーリー展開と構図。今じゃわからないだろうね。隣室の男の中に出てくる構図、あんな構図をとった作家は、それ以前誰もいない。コマ運びも。主人公の行動は実にリアリティがある。漫画的ではないように隅々まで配慮したから、かなりリアルなはずだ。」
「たとえば最後に表札が落ちるシーン、セリフなしで登場人物の心理描写をするシーンだけど、ああいうのはそれまでの漫画ではまったくあり得なかった。恐らく自分が一番最初だと思う」
注:「少女クラブ」で石ノ森章太郎がコマによる心理描写にチャレンジした幽霊少女の連載が始まるのは1956年9月号から。それよりも早い時期から、既に松本はコマによる心理描写を巧みに使って描いている。
セリフなしでコマを重ねて時間を表し、アングルを変えて奥行きを表現(隣室の男より)
Q10:また、『地獄から来た天使』(1957年)の主人公はマンガ家でもあり、当時の若手マンガ家(手塚治虫など)と同じようにベレー帽をかぶっています。お父様の作品に自伝的な要素はどの程度あるのでしょうか。 また、お父様の人生の中で、必然的に作品に反映された側面や瞬間はあるのでしょうか。

これは息子である私の主観ですが、父の作品には戦争や貧困が関係しているように思います。
隣室の男に出てくる仁市というキャラクターには戦争によって家族全員を亡くした孤独が描かれています。
父も学童疎開をせず、大阪に残って空襲を受けて死体を踏んで逃げまとい、2回も家を焼かれる経験をしています。
また「東京ファイル」に出てくる路上でシケモク(煙草の吸殻)を拾う仕事をする老人の主人公など、社会の底辺にいる人に向けた眼差し、また金に心を奪われる人たちの描き方など、これらは父の育った環境、父方の裕福な親族とは自ら距離を置いたことに関係があるような気がしてなりません。
父が描いたのは日常の何気ない人間ドラマであり、60年代以降の劇画ブームに出てくるアクションや暴力を中心としたストーリー描写は本人には向いてなかったと思います。

次に続く(ここまでで半分くらいです)
もし日本人・外国人問わず、劇画や漫画を研究されている方が、こちらの記事を見つけていただけたらと思っています。
「隣室の男」に登場する仁市は、家族全員を空襲で失ってしまった謎のキャラクター

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松本知彦 Tomohiko Matsumoto

東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。

  • 趣味:考えること
  • 特技:ドラム(最近叩いていない)
  • 好きなもの:ドリトス、ドリフターズ、
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