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新宿で生まれて新宿で育った。ここは故郷?

東京
Jul 15,2022

僕は新宿生まれで、小学校までは新宿で育ちました。

他人にどこの生まれなのかを聞かれた時に、そのように回答すると、シティボーイだとか、都会っ子(古っ)だとか言われるんですが、本人にはその自覚はほとんどありません。

新宿という響きがそう思わせると思うのですが、新宿と言っても広いのです。

都庁がある高層ビル群のエリアや歌舞伎町だけが新宿ではない。

神楽坂や四谷三丁目も、高田馬場も国立競技場がある千駄ヶ谷も新宿なのです。

幼稚園の時から2年前まで変わってなかった以前のお店
新宿と聞いて、まず最初に思い浮かべるのは新宿駅でしょう。
日本一の乗降客があるマンモス駅。
そして小売りと飲食の売上が日本で一番高いのも新宿区なんです。
新宿区が行なったイメージ調査では、「便利」「商業施設」「外国人が多い」などが上位に挙がっています。
でも僕が生まれたところは、そんな喧噪からは離れた落合というマイナーなエリア。
東西線に落合という駅がありますが、そこから少し歩いた場所に下落合、中落合、上落合という番地があります。
東西線以外にも近くに大江戸線や西武線の駅もある。(昔は大江戸線はなかった)
駅前の店は変わりましたが、踏切の風景は同じです
新宿区ですけれど、落合周辺のイメージは下町そのものです。
商業施設もなく、小さな戸建てや商店、昭和のアパートがまだまだたくさんあります。
僕が育った場所は、再開発からも見放されて高層マンションなどもあまり建っていません。
生まれ育った落合は、昭和の風景がまだそのまま残っている場所なのです。
確かに昭和の時代は、栄えていたかもしれないですね。
でもそれは、あくまで私鉄沿線特有の栄え方です。
落合で、たぶん皆さんが想像する新宿のイメージに合致するのは、昭和の時代から、緑は周りにまったくなかったという事実。
新宿御苑や中央公園まで電車で行くか、少し遠いけど蛍で有名なおとめ山に行くしかなく。
いわゆる公園もほとんどなくて、庭のない木造家屋とアスファルトだけの街でした。
遊びと言えば、家と家の間にある塀の上を歩くか、アスファルトの地面に蝋石で丸をたくさん描いてケンパをするか、ケイドロ(地域によってはドロケイと言うようですね。落合ではケイドロでした)くらいが主な遊びでした。
なんつったって、通っていた小学校の校庭もアスファルトでしたから。
道路と同じです 笑
そこにペンキで白い線が引かれている。
今思えば、これって道路に書いてある「止まれ」や車道と区別するための歩道のラインと同じじゃん。
そのラインに沿って、運動会ではみんな走ってました。
しかも上履きで!(昼休みはみんな上履きのまま校庭に出て遊ぶ)
柏屋呉服店の看板が50年変わってないことにオドロキ。。
そんな落合エリアで育った僕ですが、育った環境って人に何か影響を与えるのかな?
人と人の距離が近くて、いわゆる下町と同じような人情味溢れる街でした。
そんな街に最近、縁あって何年振りかで行く機会がありました。
大学を案内するパンフレットのデザインコンペに呼ばれたからですが、最初その大学の名前を聞いた時には「え、自分はその大学の付属幼稚園を出たんだけど」って思いました。笑
偶然です。
でも僕の卒園した幼稚園は閉園してしまって今はもうありません。
何十年ぶりに大学の門をくぐりましたが、変わったのか変わってないのか、あまりよくわからなかった。
それもそのはずで、幼稚園の入口は大学とは別にあり、給食の時だけ先生の後について敷地内の階段を登って丘の上にあった大学の食堂に行くだけなので、門の記憶はないのです。
でも自分が生まれて初めて、絵のコンクールで金賞を獲って表彰された幼稚園。
その幼稚園と同じ敷地にある大学に足を踏み入れるのはワクワクする体験でした。
大学の校門は素敵でIVYリーグのようでした。
当時、この幼稚園には近所の友達たちも一緒に通っていました。
駅前の商店の子供たちも何人かいた。
商店の子供って気性が荒くて、送迎バスで誰が一番先にバスに乗るかで、毎朝喧嘩になり、泣かされていた記憶があります。
呼ばれた大学に行く前に駅前の商店街を歩いてみたんですが、その友達たちのお店、花屋、果物屋、寿司屋、酒屋、八百屋、材木屋、金物屋、そのすべてがなくなっていて、とても悲しい気持ちになりました。
ただ2つだけ残っていた店があります。
当時2つあったうちのもう1つの寿司屋「白雪寿司」と銭湯でした。
同じ幼稚園に通った寿司屋の娘と、風呂屋の息子、そのどちらとも仲が良くて、小さい頃はよく一緒に遊んだものです。
家族の人たちからは「ともちゃん」と呼ばれて、よく家にも遊びに行ったなぁ
せっかく地元?に来たので、スタッフを連れて、幼馴染がやっている「白雪寿司」でランチをしました。
建物は変わっても味は変わらず美味しかった。
2年前まで同じ場所に建っていた白雪寿司の建物
自分が知ってる寿司屋のおじさんは既に亡くなっていて、幼馴染の同級生の弟が「白雪寿司」を継いでいました。
いつもカウンターの端っこで、お酒を飲みながら接客していたおばさんは元気で健在。
でも建物が新しいマンションに変わってしまって、昔の趣のある建物ではなかったのは残念だったなぁ。
僕の知っている頃の「白雪寿司」は、2階が座敷で大きな宴会ができるようになっていたし、別館があってそこではカラオケもできた。
変わってしまう前の「白雪寿司」には、当時近所に住んでいた赤塚不二夫やタモリがよく訪れたことで知られています。
すごく美味しいのに安価で、昔と変わらず、とても良いお寿司屋。
打合せの帰りにちょっと撮影してみました
50年前には掲示板はなかったみたいですね。
同じ番地のサイン。あんまり変わってない
幼稚園を卒園したあと、この白雪寿司の娘と銭湯の息子、自分も含めて3人は遠くにある同じ小学校に通いました。
越境通学だったので、幼稚園の他の友達たちとは離れ離れになりましたが、自分が通う小学校には元日本テレビのアナウンサー福澤 朗がいて、彼と同じクラスになってからとても仲良くなりました。
毎日「白雪寿司」の前の通りを2人で歩いて帰ったことを想い出します。
福澤も越境通学だったので、20分くらいの道のりを2人で毎日歩いて帰りました。
思い出の通り、懐かしい街。
そして以前このブログでも書きましたが、父が描いた作品にもこの落合の情景が時々描かれています。
そう、片岡義男さんが作品を見ただけで、ズバリその場所を当てた西武新宿沿線の駅です。

https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2021/03/post-105.html
小学校低学年、絵を描く松本少年
懐かしい気持ちもありましたが、もう自分が知っている街の情景ではないことにちょっぴり寂しさを感じながら街を後にしました。
でも、自分が卒園した幼稚園の大学の仕事をするかもしれないなんて、本当に何かの縁を感じます。

生まれた街をもう少し探検したい気持ちになりました。
でも自分の故郷なのか?と言われると、そんな気持ちはほとんどありませんね。
何か不思議な感覚です。

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松本知彦 Tomohiko Matsumoto

東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。

  • 趣味:考えること
  • 特技:ドラム(最近叩いていない)
  • 好きなもの:ドリトス、ドリフターズ、
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