談話室松本をリニューアルしました。
これまでの談話室松本はこちらからチェックできます

  1. top
  2. 私の履歴書
  3. 劇画家さいとう・たかをさんを想い、父を想う

劇画家さいとう・たかをさんを想い、父を想う

私の履歴書
Nov 18,2022

先月、漫画家(劇画家)さいとう・たかをさんのお別れ会が帝国ホテルで開かれました。

当初開催予定だった日程から、コロナのために、1年延びての開催です。

ご案内をいただいたので、母と二人で行ってまいりました。

父がさいとうさんたちと60年前、一緒に作った本。
ちょっと話は変わりますが、僕は美術大学に通っていた時、毎日中央線の国分寺駅を利用してました。
大学は鷹の台という、国分寺から西武国分寺線に乗って2駅の場所にありましたが、電車は単線で20分に1本しかなかった。
あとは国分寺から「小川上宿美大行き」のバスに乗るか。
大学は田舎にあって遠かったなぁ。
大学2年生の時から、リリー・フランキーたちとバンドをやっていたんですが、当時リリー・フランキーが国分寺に住んでいたこともあって、バンドの練習の帰りには、いつも国分寺で遊んでいました。
彼が国分寺でバイトをしていたので、だいたい遊ぶといえば国分寺か、国立でした。
よく国分寺名物、スタ丼をみんなで食べて帰ってましたね。

これはずーー-っとあとで知ることになるのですが、父はさいとうさん、辰巳さんと共に(3人で劇画を創作)大阪から国分寺にやってきて、同じアパートに住んでいたんです。
年齢にしたら、大学生だった自分とほぼ同じ年くらい。
国分寺には「でんえん」という喫茶店があって(今でもあるはず)、そこに多くの漫画家がいつもたむろしていた。
その当時、そこでアルバイトをしていた母親と父が知り合って、のちに結婚することになるのですが、僕が国分寺で毎日のように遊んでいた時、まったくそのことを知らされなかった。
聞いたのは父が亡くなる少し前です。
同じ年齢の頃、同じ場所で遊んでいたのは何かの縁でしょうか。
そして今、自分の息子も僕と同じ大学に進み、国分寺に・・

さいとうさんは10代から家業の理髪店を継いでおり、若くして経済の仕組み、社会を知っていた。
マンガを描くようになると頭角を現し、売れっ子になりますが、川崎のぼるさんなど弟子を早くから自分の部屋に住まわせていた。
こうして弟子(アシスタント)たちを増やしていって、のちにさいとうプロダクションを立ち上げることになります。
そして早くから結婚して子供もおり、女性に対しても早熟だったと思います(3回結婚してます、、、)
社会的に早熟で、弟子を家に住まわす、こうした点はリリー・フランキーと共通してます。
社会的に早熟というのは、育った家庭環境もあって、お金の仕組みや、社会の汚れた部分も若くして知っているということ。
1人でできない部分を他人にカバーさせる才能という点も共通していると思いました。
他人のそうした部分を見抜くのは天性でしょうかねぇ
リリー・フランキーは約束ということができない男ですが、いつも遅刻して謝罪するのは、まったく売れてない頃からアシスタントでした(売れてないのにアシスタントがいる 笑)
同じ国分寺という街で遊び、集ったメンバーの中から著名人が(破天荒な)出てくるという、その2人にどこか共通点を感じるのは偶然なのだろうか?とも思います。
リリー・フランキーも、その家庭環境が影響してか、早くから社会のシステムを知っていました。
この点はさいとうさんも同じだと思います。
そして2人ともマザコンというのも共通している 笑
帝国ホテルで行われたさいとうさんのお別れ会。
まぁそんなわけで、国分寺というのは自分にとって、どこか特別な場所のように感じます。
父がさいとうさん、辰巳さんと一緒に毎日生活しながら、その青春を漫画に賭けた場所が国分寺。
まぁ僕たちはただ遊んでいただけですが。
そして父の遺伝子は僕にも受け継がれていて、さいとうさんのように、そしてリリー・フランキーのように、舎弟をつくるタイプではまったくないw
むしろ徒党を組むことが好きではない。
帝国ホテルにゴルゴ13の大きなマネキンが出現。
博物館のような展示の中に父の名前もありました。
さいとうさんには子供の頃から会ってましたが、その後父が亡くなってから何度か会う機会がありました。
父の7回忌で、お忙しいのに一人でお墓に来てくださったこともあり。
さいとうさんの別荘に、父が元気な頃、両親だけ泊まりに行ったこともありました。
父と仲が良かったんでしょうね。
僕がさいとうさんと話した印象は、鋭い人だなということ。
アートと漫画の違い、漫画は先にお金を払うメディアなんだと、僕に力説してくれたこともありました。
話の内容は、お金をもらうプロフェッショナルはこうであるべきという内容が多かったように思います。
父や辰巳さんに、そうした視点はありません(特に父には)
父たちの話は主に漫画の表現についてでしたが、さいとうさんはその視点で物事はあまり見ていない印象でした。
エンタメとお金の関係について話されていたことがとても印象に残ってます。
そして、僕が小学館から出版した父の作品集を作っている最中、その話をさいとうさんにした時も、もうこの世のいないんだからそんなことをしても意味がないと言われたことも印象的だった。
話される内容は、常にドライタッチでした。
https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2021/12/-1-2.html

さいとうさんと父を結びつけたのは、大阪の作家たちが集まって作った劇画工房というグループ。
さいとうさんは劇画家と名乗っていますが、もともと劇画工房は8人のメンバーからなるグループで、劇画という名称を使ってこの8人が作品を発表するというチームでした。
当時聞きなれない劇画という名称が、さいとうさんの作品によって日本中に知られるもっともっと前のことです。
父の作った駒画が劇画という名称に代わり、それがゴルゴ13により、大衆化されていった。
https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2021/12/-2.html
お焼香の長い列の先に行くと、
祭壇の中心にはさいとうさんと父たちが作った本が、、
同じ摩天楼の本を、父も保管していました。
さいとうさんのお別れ会は、お別れという名前がついてますが、帝国ホテルの広間が美術館のような展示会場になっていました。
テレビの取材も来てました。
会場で母はゴルゴ13を1度も今まで読んでなかったので、1冊本屋で買って読んでみたのよ、と言ってましたが、あまりに父と異なる作風に衝撃を受けたようでした。
売れるにはこうじゃなきゃダメなのよ、と繰り返し僕に言うのです 笑
確かに、そうかもしれません。
でも、その作品のストーリーは父が書いていた。
父はゴルゴ13のシナリオを書いていた時期があるのです。
でもきっと本人は向いてないと感じていたことでしょうね。
摩天楼の冒頭で、父とさいとうさんの熱海の記事が。
摩天楼から60年後、父と同じように、さいとうさんと並んで。
「劇画家」さいとう・たかをお別れ会は、大きな祭壇のある部屋と、美術館のような展示スペースに分かれていました。
大きな祭壇で焼香をしてから美術館のスペースへ。
焼香の列に並んで、祭壇の前に立ったとき、あることに気が付きました。
それは大きな祭壇の中心に、父とさいとうさんたちが国分寺で生活していた時に描いた本が並べられていたこと。
「摩天楼」は、劇画工房が責任編集として出版した書籍で、劇画家を名乗る8人しか連載することができないオムニバスのシリーズでした。
父たちが、それまでの漫画ではない漫画、新しい表現を持った「劇画」を一人でも多くの人に知ってもらうために、青春を賭けた本がそこに飾られていました。
さいとうさんを想うと同時に、父を想い、国分寺を思い出しました。

SHARE THIS STORY

Recent Entry

松本知彦 Tomohiko Matsumoto

東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。

  • 趣味:考えること
  • 特技:ドラム(最近叩いていない)
  • 好きなもの:ドリトス、ドリフターズ、
    青山ブックセンター