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自分たちの働くオフィスをゼロから建てる

クリエーター
Mar 17,2026

オフィスをゼロから建てるという経験は、人生で多分そんなに多くの人が体験するものではないだろう。

平面のデザインをずっとやってきて、グラフィックと空間の関係に以前から強い興味があり、いつか自分たちで計画した空間で働いてみたいという想いを抱いていた。

BRUTUSやSTUDIO VOICEのエディトリアルを手掛けたCAPが建てた極小の自社ビルや、働き方の変更により、オフィスデザインに対する社会的関心の高まりにも刺激を受けた。

クリエイティブに携わっている者なら、誰でも1度は関心を持つ分野だろう。

信念を持って1つの仕事を続けていると、そんな夢が叶うことも知ることが出来た。

振り返れば、自分たちは幸せな体験ができたなと今では感じている。

代々木上原に更地から建築したオフィス
話は30年前に遡る。
大手の印刷会社を退職した僕は、代々木上原に建つ小さな中古の住宅を購入した。
当時上場企業の平均的な退職金はいくらだったのか知らないが、10年以上勤務して退職金が28万だったことは鮮明に覚えている(封筒を手渡しされたが中身を開けると手形だった)
中古とはいえ、そのお金だけでは到底都内の戸建ての頭金に足りるはずもなかったが、頑張って35年のローンを組んでどうにか買うことができた。
70年代に建てられた木造の戸建ては、その時代に流行したであろう極めて日本的な建築のディテールが各所に見られて、まるで中学の友達の実家のようだった。
そこでしばらくは一人で住み、友人のカメラマンとの共同生活を経て、イタリアから帰国したファッション関連の仕事をしている友人の女子と3人で暮らし、その後は結婚することになる奥さんと一緒に住んだ。
ある日、夕食で余ったてんぷらを食卓の皿の上に置いたまま寝た時があった。
翌朝起きると、テーブルの上にあったはずのてんぷらがなくなっていることに気が付いた。
おかしい、確か余ったエビ天が2尾あったはずだ。
んー、、、おかしいなぁ。食べちゃったんだっけな?気のせいか、と最初は思っていた。
当時一緒に住んでいた奥さんと「確か皿の上にあったような気がしない?」と確認しながら話していた。
気が付いたのは、そこからかなり後になってからだ。
持っている何枚かのLPレコードの紙ジャケットの角がなぜか削られて丸くなっているのを発見、コンセントにつなぐ電源コードの中身の線がむき出しになっている箇所があったり、お風呂の石鹸が時々見あたらなくなったり。
様々な怪奇現象が起きていた。
それらはすべてネズミの仕業だった。
ネズミが知らないところでかじっていたのだった。
そういえば寝ている時、何かが天井を走るような音が聞こえることがあった。
でもまさか、てんぷらを食べたのがネズミだったとはまったく思いもしなかった。
てんぷら以外にも出しっ放しにした食料は、食べられていたかもしれない。
気が付かなかったww
窓から差し込む光が美しいオフィスの6mある吹き抜け部分
その家の1階をオフィスとして使っていた。
昼は1階で働き、夜は2階で寝た。
古い日本家屋は、細かい仕切りで区切られており、とても使いにくい。
ネズミの問題もあるし、事務所として使いやすいようリフォームすることにした。
建築家は、当時よく一緒に遊んでいた友人のMarkとAstridに頼んだ。
イギリス人のMarkとイタリア人のAstridは、伊東豊雄事務所を辞めたのち、2人でKlein Dytham architecture(KDa)を設立して3年目くらいだった。
売り出し中だった彼らは忙しいのに、この極小で予算のない仕事を快く引き受けてくれた。
入口のガラス扉の取っ手は、窓として切り抜いたカタチ。
それから数年後、偶然自宅の近くでとても良い土地を見つけて、またかなり無理をして35年ローンで手に入れた。
こんなことを書くと、お金持ちの息子のように思われるかもしれないが、まったくそんなことはない。むしろその真逆だ。
売れない漫画家の息子という特殊な環境で育ち、経済的に何の援助も受けたことはない。
ただただ、クリエイティブを突き通したいという志だけがあった。
今度は自分たちが働くオフィスを建てたい!
その気持ちがとても強かった。
自分たちが毎日働くオフィスをゼロから設計してみたかった。
デザインオフィスなんだから、自由でユニークな建物を建てたかった。
そのプロジェクトを再びMarkとAstridに依頼することにした。
彼らに頼む前、著名な日本の建築家に依頼して、図面まで引いてもらったのだが、その時はあまりピンと来なかった。
それもあって外国人である彼らなら、日本人にはない感覚で作ってくれるのではないか、友人だから伝えやすいというものあるが、彼らを選んだ理由はそのユニークな視点だった。
私たちのオフィスを建てている途中、彼らは同時に代官山の大きなプロジェクトをコンペで獲ったと言っていた。
それが後に大きな話題となる代官山TSUTAYAだった。
この仕事で彼らの名前はさらに世に知られることになる。
KDaの主な作品を収めた新刊「to TOKYO and BEYOND」。
左からKDaの3人。Mark、Astrid、久山くん。
そんな彼らから作品集を出版するという案内が届いた。
シークレット出版パーティーの場所は、彼らが手掛けた代官山TSUTAYA。
招待された50人くらいが集まる中で、乾杯の挨拶をされたのは建築のノーベル賞、日本では数少ないプリツカー賞受賞の大御所 伊東豊雄さんだ。
倉俣史朗に憧れ、来日した彼らが最初に勤務した設計事務所が伊東豊雄さんの事務所だった。
彼らと知り合ったのは、伊東事務所を退所したあとのこと。
当時現代美術をテーマに、毎月自宅の豪邸でパーティーを開いていたジョニー・ウォーカーという(お酒じゃなく)東京のアートシーンでは知られた存在のアメリカ人の家で話したのが最初だった。
その頃は一緒によく遊んだ。
当時彼らが住んでいた新中野のマンションにも泊めてもらったし、Markが仕事で香港へ滞在中に遊びに行った時にもお世話になった。
当時衝撃的だった宮沢りえのヘアヌード写真集「サンタフェ」。
こうして比べて見ると、確かに似てる 笑。
彼らが今回発表した作品集には、私たちの事務所も「ハイジハウス」という名前でしっかり掲載されている。
窓のカタチが、スイスにあるクラシックな住宅の窓に似ているからこの名前がつけられているが、最初は「サンタフェハウス」と呼んでいた。
社会現象にもなった篠山紀信による宮沢りえのヌード写真集「サンタフェ」の表紙から取ったものだが(窓のカタチが同じ)、今の若い人は「サンタフェ」を知らないかもしれない。
「サンタフェ」現象は日本国内だけのもので、外国人にその意図が伝わらないという理由で、途中で名前が「ハイジハウス」に変更になった。
使用している素材はチープだが、吹き抜けの空間に窓から差し込む光は、何か教会のようで荘厳な雰囲気すらある。
設計当初は、テント素材で建物全体を包み込み、夜には建物自体が内側から発光する計画だったが、渋谷区から防火条例でNGが出てしまったため、外側は全面ガラスに変更され、窓のデザインも変更になった。
吹き抜け部分は撮影スタジオとして貸し出し、タレントなどの撮影に多く使われた。
スタジオの隣にある2層のフロアを、オフィスとして自分たちが利用した。
吹き抜けの2階のフロアからは、タレントやモデルの撮影風景を覗くことができて、それはそれで楽しかった。
7年近く使用したが、その間に照明を変えたり、カーテンを設置したり、床を塗り替えて増築したりと色々手を加えた。
キッチンで料理をして、スタジオでパーティーをよく開いた、とても思い出深いオフィスだ。
代官山TSUTAYAで彼らの名は一層知られ、英国から勲章も授与された
銀座の数寄屋橋交差点近くにあるKDa最新作のカルティエ。
30年もの間、ずっと第一線で活躍しているMarkとAstridにはリスペクトしかない。
友人としても嬉しい限りだ。
彼らの最新のプロジェクトは銀座のカルティエだ。
オープンして間もないので、作品集には掲載されていないが、数寄屋橋交差点近くで宝石のように輝くgoldのゴージャスな建築となっている。
そのすぐ近くの4丁目交差点には旧日産ショールームビル、その少し先にはUNIQLO、それらも彼らが手掛けたものだ。
いやぁ素晴らしい。
以前、ネズミのいたボロい日本家屋のリフォームを頼んだ過去が恥ずかしくなってしまうくらい、銀座のカルティエは輝いている。
しかし、彼らに依頼したオフィスで過ごした時間も同じくらい、いや銀座のカルティエ以上に自分の心の中でずっと輝き続けている。
このオフィスはカルティエと同じく、心にずっと輝いている。

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松本知彦 Tomohiko Matsumoto

東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。

  • 趣味:考えること
  • 特技:ドラム(最近叩いていない)
  • 好きなもの:ドリトス、ドリフターズ、
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