東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。
つげ義春と父正彦
Apr 02,2026
つげ義春さんが亡くなった。
直接お会いしたことはないけれど、父とつげさんが同じ作家同士で、お互い交流があったことは、生前父から聞かされていた。
聞いた話で記憶にあるのは、おとなしい人だったということ。
その頃は、父がつげさんと同じ書籍に連載をしていたことなどまったく知らなかった。
そう、父が亡くなるまで、父の仕事について自分はほとんど知らなかったのだった。
いや、知ろうとしなかったという表現の方が適切だろう。
つげさんが影響を受けたと語るB6判の父の作品(1956)
1950年代、貸本ブームという社会現象があった。
書店で本を購入するのではなく、お金を払って数日間本を借りて、読み終わったら返却するというシステム。
レンタルレコード(これも古い)やサブスク前のTSUTAYAのような業態だ。
貸本屋の全盛期は、1950年代後半から1960年代初頭あたりまで。
当時、東京に3000店舗、全国には3万店の貸本屋が存在し、漫画文化を全国に広める大きな役割を果たした。
大阪の日の丸文庫が1956年に創刊した「影」が貸本マンガのブームを牽引し、翌年名古屋のセントラル出版が出した「街」がそれに続いた。
どちらもヒットした。
その人気の中心は「影」に執筆していた、さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、松本正彦の3名だった。
父は複数の作家を集めて収録する「影」のオムニバス形式のアイデアを企画し、3人は「影」だけでなく、「街」にも呼ばれて2誌に掛け持ちで作品を発表した。
そのブームの中、1958年に東京の若木書房が「迷路」を創刊する。
その中に、父とつげさんがいた。
若木書房は東京在住の作家を中心に集めたが、当時「影」「街」の人気作家だった父にも声がかかった。
なぜか大阪からは、父だけが創刊号から参加する。
毎日新聞が投票で選んだ全国人気漫画家ランキングで、父は3位に入っていた。
そのあとに上京するが、当時関西在住の作家でランキングに入ったのは、父一人だけだった(手塚治虫は既に上京)。
そんな父が、東京の作家たちと共演するのは初めてのこと。
父はその時の様子をこう話していた。
「影」や「街」で活躍する関西の連中と一緒にまとまって掲載されないと、東京の作家の中に一人だけが大阪の作家では弱い、劇画の連中と一緒に描きたかった。
その想いを背景に、父は旧友たちが結成した劇画工房に入ることになる。
書店で本を購入するのではなく、お金を払って数日間本を借りて、読み終わったら返却するというシステム。
レンタルレコード(これも古い)やサブスク前のTSUTAYAのような業態だ。
貸本屋の全盛期は、1950年代後半から1960年代初頭あたりまで。
当時、東京に3000店舗、全国には3万店の貸本屋が存在し、漫画文化を全国に広める大きな役割を果たした。
大阪の日の丸文庫が1956年に創刊した「影」が貸本マンガのブームを牽引し、翌年名古屋のセントラル出版が出した「街」がそれに続いた。
どちらもヒットした。
その人気の中心は「影」に執筆していた、さいとう・たかを、辰巳ヨシヒロ、松本正彦の3名だった。
父は複数の作家を集めて収録する「影」のオムニバス形式のアイデアを企画し、3人は「影」だけでなく、「街」にも呼ばれて2誌に掛け持ちで作品を発表した。
そのブームの中、1958年に東京の若木書房が「迷路」を創刊する。
その中に、父とつげさんがいた。
若木書房は東京在住の作家を中心に集めたが、当時「影」「街」の人気作家だった父にも声がかかった。
なぜか大阪からは、父だけが創刊号から参加する。
毎日新聞が投票で選んだ全国人気漫画家ランキングで、父は3位に入っていた。
そのあとに上京するが、当時関西在住の作家でランキングに入ったのは、父一人だけだった(手塚治虫は既に上京)。
そんな父が、東京の作家たちと共演するのは初めてのこと。
父はその時の様子をこう話していた。
「影」や「街」で活躍する関西の連中と一緒にまとまって掲載されないと、東京の作家の中に一人だけが大阪の作家では弱い、劇画の連中と一緒に描きたかった。
その想いを背景に、父は旧友たちが結成した劇画工房に入ることになる。
若木書房の「迷路」第1号に、つげさんと父の名前
当時父は、既に新しいマンガの表現、のちの「劇画」のルーツとなる「駒画」を生み出していた。
つげさんは、そんな父の表現に魅かれていたようだ。
wikiにもそのように書かれている。
最初にこの話を知った時は、ちょっとびっくりした。
つげさんが父の作品に魅かれていた??
調べてみると、本人もそのように発言しており、オドロキでしかなかった。
「迷路」誌上で、つげさんと父の初の競作以前から、お互いに互いの作品を知っていたに違いない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%B0%E3%81%91%E7%85%99%E7%AA%81_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)
つげさんは、そんな父の表現に魅かれていたようだ。
wikiにもそのように書かれている。
最初にこの話を知った時は、ちょっとびっくりした。
つげさんが父の作品に魅かれていた??
調べてみると、本人もそのように発言しており、オドロキでしかなかった。
「迷路」誌上で、つげさんと父の初の競作以前から、お互いに互いの作品を知っていたに違いない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%8A%E3%81%B0%E3%81%91%E7%85%99%E7%AA%81_(%E6%BC%AB%E7%94%BB)
オープニングからずっと雨が降る「おばけ煙突」
ゴッホの絵画のような描写
1963年に取り壊された千住火力発電所
つげさんは創刊号で「おばけ煙突」を発表している。
ガロで活躍する白土三平に絶賛され、後の代表作「ねじ式」につながる起点となる作品だ。
かつて東京足立区に実際にあった千住火力発電所が舞台となっている。
その煙突に登る煙突掃除人のストーリーだ。
セリフは少なく、全編で雨が降っている。
フォーカスしているのは主人公の内面の動きだ。
つげさんが魅かれていたという父の作品にも、こうした内面の動きが共通して表現されている。
セリフによる説明ではなく、内面と対比した情景描写や(たとえば雨)セリフのないコマ割りで主人公の内面を伝えようとする試みだ。
そこに共鳴していた可能性が高い。
ガロで活躍する白土三平に絶賛され、後の代表作「ねじ式」につながる起点となる作品だ。
かつて東京足立区に実際にあった千住火力発電所が舞台となっている。
その煙突に登る煙突掃除人のストーリーだ。
セリフは少なく、全編で雨が降っている。
フォーカスしているのは主人公の内面の動きだ。
つげさんが魅かれていたという父の作品にも、こうした内面の動きが共通して表現されている。
セリフによる説明ではなく、内面と対比した情景描写や(たとえば雨)セリフのないコマ割りで主人公の内面を伝えようとする試みだ。
そこに共鳴していた可能性が高い。
父が「迷路」に描いた初期の作品には「駒画」のマーク
しかし、父がこの創刊号に発表しているのは探偵推理モノで、内面の動きといった表現はあまり見られない。
その表現がもっとも顕著に現れているのは、大阪時代に発案した「駒画」の作品群だろう。
「迷路」は、父が上京してから発刊された雑誌であり、創刊から間もない頃は「駒画」の名称で作品を発表しているが「駒画」的な表現は影を潜めている。
つげさんは父より3歳年下であり、父が大阪時代に描いた「駒画」の表現、また駒画に触発された辰巳さんの「劇画」の表現に触れ、魅かれていたというのは想像に難くない。
それは、さいとう・たかをさんの描く「劇画」とは全く異なる表現だ。
しかし60年代以降、高度成長に入ると漫画には殺しやエロなど、より過激な表現が求められるようになる。
内面の心の動き=静よりも、表面的なアクション=動が求められるように変わっていった。
それはさいとうさんの「劇画」の世界に近い。
クリエイティブよりも、マーケティングが求められるようになったともいえるかもしれない。
そうした社会ニーズの変化の中で、父の人気は徐々に下降線を辿っていく。
その表現がもっとも顕著に現れているのは、大阪時代に発案した「駒画」の作品群だろう。
「迷路」は、父が上京してから発刊された雑誌であり、創刊から間もない頃は「駒画」の名称で作品を発表しているが「駒画」的な表現は影を潜めている。
つげさんは父より3歳年下であり、父が大阪時代に描いた「駒画」の表現、また駒画に触発された辰巳さんの「劇画」の表現に触れ、魅かれていたというのは想像に難くない。
それは、さいとう・たかをさんの描く「劇画」とは全く異なる表現だ。
しかし60年代以降、高度成長に入ると漫画には殺しやエロなど、より過激な表現が求められるようになる。
内面の心の動き=静よりも、表面的なアクション=動が求められるように変わっていった。
それはさいとうさんの「劇画」の世界に近い。
クリエイティブよりも、マーケティングが求められるようになったともいえるかもしれない。
そうした社会ニーズの変化の中で、父の人気は徐々に下降線を辿っていく。
つげさんの1968年の代表作「ねじ式」
そんな中で、自分の表現スタイルを変えずに守るのか、それとも家族の生活のためにニーズに迎合するのか。
60年代以降、父の元には大阪から来たのだから、さいとうさんのようなアクションを描いてくれというオーダーばかりが届くようになっていた。
当時父はどんな心境だったのか、今は知る由もない。
つげさんは世間と隔絶しながらも、独自のスタイルを守ったともいえるのではないだろうか。
60年代以降、父の元には大阪から来たのだから、さいとうさんのようなアクションを描いてくれというオーダーばかりが届くようになっていた。
当時父はどんな心境だったのか、今は知る由もない。
つげさんは世間と隔絶しながらも、独自のスタイルを守ったともいえるのではないだろうか。
自分で編集した父の作品集「隣室の男」
人気のピークを過ぎようとしていた父と、その後の表現の起点となったつげさんの初期の名作が同じ本に収録されている。
息子として複雑な気持ちになるけれど、感慨深いものがある。
そしてこの「迷路」を知った頃から、自分の手で父の作品集を出版したいと考えるようになった。
同時に、どこかで父の展覧会を開きたいと思うようにもなっていった。
作品集は、父が亡くなった5年後に小学館から出版され、展示はロンドンで実現する。
父がいなくなった時、つげさんからいただいた言葉を自分が手掛けた作品集にも収録させてもらった。
それが以下の言葉だ。
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2009年5月 つげ義春
松本正彦「駒画」作品集 隣室の男より
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息子として複雑な気持ちになるけれど、感慨深いものがある。
そしてこの「迷路」を知った頃から、自分の手で父の作品集を出版したいと考えるようになった。
同時に、どこかで父の展覧会を開きたいと思うようにもなっていった。
作品集は、父が亡くなった5年後に小学館から出版され、展示はロンドンで実現する。
父がいなくなった時、つげさんからいただいた言葉を自分が手掛けた作品集にも収録させてもらった。
それが以下の言葉だ。
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東京の漫画というのは依然として手塚調という感じでしょう。
それに対して大阪の方は、やっぱり松本さんや辰巳さんなんかを見ると、もう少しリアリティがあるマンガの感じが多かったですからね。
松本さんや辰巳さんが、「影」創刊の前に描いていたB6判の作品を見てましたが、子供がピストルを振り回すとか(荒唐無稽な表現)はなくて、リアルな感じがあったので魅かれたんですよ。
2009年5月 つげ義春
松本正彦「駒画」作品集 隣室の男より
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上がつげさん、下が父の作品。比較検証した浅川さんの鋭い論考
これを読んで感じるのは、父側から見た「東京の作家の中に、大阪の作家自分一人だけでは弱い」という内容とは逆に、つげさんは「東京にはないリアリティが大阪からやってきた」と感じていることが非常に興味深い。
父とつげさん、2人の作家における共通点については、以前劇画研究の第一人者である浅川さんが「SPECTATOR」に寄稿している。
2人の類似する表現を、実際の作品を対比しながら解説しており、つげさんの上述の言葉の通り、父の作品からの影響がつげさんの作品に現れていることが書かれている。
事実がエビデンスとして提示されていることに、自分としてはオドロキしかない。
つげさん、ありがとうございました。
https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2018/03/post-35.html
父とつげさん、2人の作家における共通点については、以前劇画研究の第一人者である浅川さんが「SPECTATOR」に寄稿している。
2人の類似する表現を、実際の作品を対比しながら解説しており、つげさんの上述の言葉の通り、父の作品からの影響がつげさんの作品に現れていることが書かれている。
事実がエビデンスとして提示されていることに、自分としてはオドロキしかない。
つげさん、ありがとうございました。
https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2018/03/post-35.html
つげさんと父の競作の収録は10号以上続いていた





