談話室松本をリニューアルしました。
これまでの談話室松本はこちらからチェックできます

  1. top
  2. 私の履歴書
  3. あまり言いたくないけど、仕事で差別される経験

あまり言いたくないけど、仕事で差別される経験

私の履歴書
Nov 12,2019

33歳の時に、それまで10年間勤めてきた会社を辞めました。

そして今の会社を一人で始めました。

会社に勤務しながら独立することを長い間考えてきたわけでも、その会社が嫌になったわけでもありませんでした。

自然の流れというか、副業が禁止されている会社の中で、どちらか1つを選ばなければならなかったというのがその理由です。

企業に勤務していた時にいただいた社長賞1級。
よく聞く、金がもっと欲しいとか、ハングリーな上昇志向とか、人間関係の行き詰まりとか、仕事が嫌になったとか、そんなものは一切なかった。
むしろ、どちらかを選ばなければならない状況に置かれなければ、続けていたかもしれない。
どちらかを選ぶ背景にあったのは、もっとクリエイティブに向き合いたいというシンプルな想いだけです。
しかし、そうは言っても、どちらかを選ぶ答えを出すまでには少し悩みました。
1万人も社員がいる企業を退職して、コネも、スキルもない自分が一人ぼっちでやっていくのは果たして可能なのだろうか?
新卒で就職して当たり前のようにもらえていた月給はもうもらえない、やってみて食えなかった場合、嫌いではなかったその会社に戻ることは2度とできない。
現状に不満があって辞めるわけではなく、その会社で勤務を続けることにもさほど抵抗はなかった。
社長賞を4回受賞した実績もあって、社内でもある程度の結果は残せていたと自分では思っています。
決して社員として働くことが嫌だというネガティブな感情はありませんでした。
でも、もし失敗すれば、その会社でなくても、大きな企業にはもう戻れないという“覚悟”は必要でした。
入社して6年間は、映像のディレクターとして美術番組を制作していました。
こんなことを書いても、皆さんには伝わらないかもしれませんね。
むしろ、その選択でそんなインパクトはあるのか?失敗してもやり直せばいいことだと感じると思います。
自分は、大きな会社にこだわっていたわけではありません。
当時の社会は、今と違っていたということ。
社会にはカースト制度のような、絶対的なヒエラルキーがあり、今よりずっと閉鎖的でした。
フリーランスの人が当たり前のようにたくさんいて、いつでも再スタートが切れる、常に色々な働き方の選択肢が用意されている、現在のような社会ではまったくありませんでした。
男女雇用均等法もない(あったけど形式だけ)、業務委託もいない、人材紹介もない、転職する人すら少ない、ましてや会社を辞めて独立するなど、世捨て人かっていう目で見られた時代でした。
だから、1つの決断は、社会的に自分がどういう立場に置かれるか、大きな覚悟をする必要がありました。
大げさかもしれませんが、決めたらやり直しはきかない、1度コースをはずれれば社会的に、もう元のコースには戻れない、その後の人生を決定づける選択であったのです。
日本各地だけでなく、ロシアにも出張に行かせてもらいました。
でも一人でやることを選びました。
クリエイティブを極めたいならそうするべきだと、心の声が言っていたから。
以前このブログにも書きましたが、母親から教えられた素直な気持ちに向き合ってそれを選択しました。
https://www.dig.co.jp/blog/danwashitsu/2017/07/15.html
でも今回の記事は、企業を退職した理由を伝えたいのではありません。
これは、これから話すことの伏線です。
絵コンテを作り、ナレーション原稿を書き、200本以上の番組を制作。
僕は会社を辞める前に、家をローンで買っていました。
それは労働者のための銀行「ろうきん」で、35年ローンで購入したものです。
当時独身でしたが、家は買っておこうという気持ちがあり、小さな家を購入していたんです。
会社を辞めて1か月ほどした頃に「ろうきん」から電話がありました。
大企業の会社員だから信用してお金を貸したのであり、フリーランスには貸さない、
だから残りのローンを今すぐ全額支払え、という無茶な内容でした。
労働者のための銀行と謳っておきながら、大企業の社員以外のフリーランスは社会の労働者ではないと言っているのです。
それまで、返済が滞ったり、遅延したことなど1度もないのに、突然そんなことを言われ、当時の社会的ヒエラルキーを目の当たりにしました。
人を信用して貸しているのではなく、大きな会社の社員だから貸した、支店長はそう繰り返していました。
社会的信用はその人が従事している仕事ではなく、会社なのです。

それだけでなく、コピーをリースする際、カードを作る際、色々なシーンで社会的信用力が問題となって契約してもらえない壁にぶつかりました。
会社をやめて数か月後に、アメックスのカードを作ろうとしたら、審査であっさりハネられたことは今も記憶に残っています。
そうした体験をするたびに、自分は社会的ヒエラルキーの底辺にいて、普通の人が作れるカードも作れない人間、それを痛感させられました。
新卒で何の疑問もなく就職して働いていましたが、会社を辞めた途端に、こんなにも自分が信用のない弱者になってしまうのかと情けない思いに駆られたものです。
勤めた企業ではよい上司に恵まれたし、自分の見聞を広める上でも仕事は楽しかった。
会社を作ってから1年くらいの間に、社員は7人くらいに増えました。
まだまだ軌道にのったという状況ではなく、5社くらいのクライアントを回すのが精一杯でしたが、そんな時にある大きな会社から声がかかります。
カメラの製造メーカーとして知られる企業ですが、医療分野にも進出し、海外との取引も増えて、日本を代表するグローバル企業として、名前を聞けば誰でも知っている会社でした。
5社の参加で、コーポレートサイトのリニューアルコンペを予定しているが、うちの会社も提案に参加して欲しいという話でした。
もちろん断る理由もないので、2週間くらいで提案書を作成し、先方へプレゼンテーションを行いました。
結果は、、、、うちの会社がコンペを獲得し、この案件を受注しました。
嬉しかった。
もちろん、これが初めてのコンペにおける受注ではなく、独立してから伊勢丹や講談社などのコンペに参加し、競合他社を退けて受注はしていました。
しかし、それよりもっと規模の大きいナショナルカンパニーでも、自分の考えたストーリーは間違ってはいない、以前勤めていた会社の看板がなくても受注できる、と確信した瞬間でした。

しかし受注の連絡から1週間後、広報室から電話が・・・・
提案内容は関係者全員の投票で1位だったが、会社の規模が小さいので発注は見送りたいということを告げられました。
・・・・
会社が小さいから不安というのはわからないでもありません。
しかし、ではなぜ提案に参加して欲しいとオファーしたのか?
連絡いただいたのは、そちらからではないか
会社の規模で査定するなら、最初から連絡すべきではないでしょう。
こちらの指定する業者の下で作業をして欲しいと言われ、コンペにも参加していない会社が出てきて、そもそもコンペを開催する意味はなかった。
結果、アイデアだけ採用され、この仕事を途中で降りる結果になり、プライドは傷つきました。
本当に悔しかった。
担当した課長が謝罪もなしに、我々を見下して説明する差別的な発言も本当に腹が立った。
彼のような人間は、一生大企業の看板の下で、人を差別して生きていく価値感しか持たないだろう。
力不足でコンペに落ちることは仕方ないけど、求められた提案以外の理由で落とされることに、当時はどうしても納得いきませんでした。
ここでも社会的なヒエラルキーを感じて泣いたものです。
本物の作品を自分の目で見て、感じたことを番組の構成やナレーション、デザインに落し込む。 それだけでも、やりがいのある仕事でした。
クリエイティブの本質だけでは勝てない、それが現実でした。
クリエイティブにもっと向き合いたい、それを理由に会社を退職し、クリエイティブを極めるつもりが、こうした現実が待っているとは思いませんでした。

長くなりました。
なぜこんなネガティブと思われることをつらつら書いているかといえば、ある案件で、このことを思い出す出来事があったからです。
ここで書いたことを伏線として、次にそのエピソードを書きますね。

SHARE THIS STORY

Recent Entry

松本知彦 Tomohiko Matsumoto

東京新宿生まれ。
漫画家の父親を持ち、幼い頃より絵だけは抜群に上手かったが、
働く母の姿を見て葛藤し、美術を捨てて一般の道に進むことを決意。
しかし高校で出逢った美術の先生に熱心に説得され、再び芸術の道に。
その後、美術大学を卒業するも一般の上場企業に就職。
10年勤務ののち、またしてもクリエイティブを目指して退社独立、現在に至る。

  • 趣味:考えること
  • 特技:ドラム(最近叩いていない)
  • 好きなもの:ドリトス、ドリフターズ、
    青山ブックセンター